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東京地方裁判所 平成6年(行ウ)186号 判決 1997年1月29日

原告

学校法人倉田学園

右代表者理事

倉田キヨヱ

右訴訟代理人弁護士

白川好晴

被告

中央労働委員会

右代表者会長

山口俊夫

右指定代理人

猪瀬慎一郎

岡英夫

柴田博美

日向栄

被告補助参加人

香川県大手前高松高等(中)学校教職員組合

右代表者執行委員長

天野滋

右訴訟代理人弁護士

田原俊雄

高野範城

主文

一  被告が、中労委平成元年(不再)第九九号事件について、平成六年四月二〇日付けでした別紙一記載の命令中、香川県地方労働委員会が香労委昭和五六年(不)第二号、昭和五七年(不)第四号(一部)及び昭和六一年(不)第一号(一部)事件について、平成元年九月八日付けでした別紙二記載の主文の命令のうち、主文1項の部分並びに同3項において申立人組合員岡好孝、同中村益夫に対する昭和五六年八月四日付け出勤停止処分がなかったものとして取り扱い、昭和五六年八月五日から復帰する日までの間に同人らが受けるはずであった各賃金相当額(各一時金を含む。)から既に支給した額を控除した額及びこれに各支払期日の翌日から支払済みに至るまで年五分の割合で算出した金員を付加して支払うことを命じた部分(昭和五七年三月三一日付け降職処分により同人らが受け得なかった各賃金相当額にかかる部分を除く。)について、原告の再審査申立てを棄却した部分を取り消す。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用は、これを三分し、その一を被告の負担とし、その余を原告の負担とする。参加によって生じた訴訟費用もこれを三分し、その一を被告補助参加人の負担とし、その余を原告の負担とする。

事実及び理由

第一請求

被告が中労委平成元年(不再)第九九号事件について平成六年四月二〇日付けでなした不当労働行為救済命令は、これを取り消す。

第二事案の概要

一  前提となる事実(以下の事実は、当事者間に争いがないか、末尾掲記の証拠によって認められる。)

1  当事者

(一) 原告(以下「学園」という。)は、肩書地に香川県大手前高等学校及び同中学校(以下これら二校を「丸亀校」という。)を、高松市内に香川県大手前高松高等学校及び同高松中学校(以下これら二校を「高松校」という。)をそれぞれ設置し、教育の事業を行っており、香川県地方労働委員会(以下「地労委」という。)の審問終結当時の職員数は一三五名(うち高松校六二名)である。なお、学園の高松校就業規則(以下「就業規則」という。)には、別紙三<略>の規定が置かれている。

(二) 被告補助参加人香川県大手前高松高等(中)学校教職員組合(以下「組合」という。)は、昭和五二年九月一〇日、高松校に勤務する職員をもって結成された労働組合であって、地労委の審問終結当時の組合員数は二二名である。

2  昭和五四年以降の労使関係の推移

(一) 昭和五四年一月以降、学園と組合は、<1>昭和五三年度の年度末一時金の支給、<2> 専任教員の週当たり持ち時間の適正化、<3>授業料等の父母負担の軽減等を要求事項として団体交渉を行ったが、昭和五四年二月二八日に交渉が決裂した。

組合は、要求実現のため、同年三月中に、組合スローガンを書いた紙筒を職員室の机上に立てる紙筒闘争、就業時間中に要求を記載したリボンを着用するリボン闘争を行ったほか、朝登校した当時の高松校校長宇喜多一塩(以下「宇喜多校長」という。)に対して集団要求行動、職員朝礼時に職員室の窓側に組合員が並んで立って校長らに要求を行う闘争等を行った。

また、組合は、この間に右の組合活動に対してなされた学園の訓告処分等に抗議して学園理事長倉田キヨヱ(以下「倉田理事長」という。)及び宇喜多校長が乗った自動車の前に約二時間にわたり立ちふさがり、処分の理由につき説明を求めたり、卒業式当日に、高松校の中庭に駐車した組合員の自動車内に組合の主張を書いて張り出して、卒業式に参列した父兄向けのアピールを行うなどした。

こうした組合の活動に対して、学園は、同年三月、組合執行委員長天野滋(以下「天野」という。)をはじめとする組合員らに訓告処分及び天野に対して三〇日間の出勤停止処分を行ったほか、組合員海野伸二(以下「海野」という。)に対しては、紙筒闘争、リボン闘争並びに右の理事長及び校長への要請行動等を理由として、教諭から常勤講師に降職する処分を行い、同年四月、倉田理事長及び宇喜多校長は、海野を宇喜多校長に対する暴行を理由として告訴した(右告訴については、昭和五五年一二月不起訴処分とされた。)。

なお、高松校においては、昭和五四年四月から、倉田康男(以下「倉田校長」という。)が新たに同校校長として赴任した。

(二) 組合は、単独では労使関係を正常化することは困難であると判断して、昭和五四年六月二九日、日本労働組合総評議会香川県地方評議会(以下「県総評」という。)に加盟し、県総評は、同年七月から八月にかけて、話合いの場を持つことを学園と折衝したが進展しなかったため、同年八月下旬以降、学園に対し、数回団体交渉を申し入れたが、学園は、団体交渉になじまない事項もあり、検討するなどとしてこれに応じなかった。

また、高松校PTAも、県総評の協力要請に応じ、学園と組合を仲介して、同年九月以降数回にわたり、海野に対する告訴の取下げ及び校内の組合活動を中心議題として、高松校PTA、組合及び学園の三者会談が持たれたが、同年一一月不調となった。その後、県総評は、同月下旬から昭和五五年三月まで、海野の降職処分の撤回及び労使関係正常化のための話合いの場を作ることを求めて学園と数回にわたり折衝したが、学園は同処分は撤回できないなどと主張して、事態は進展しなかった。

昭和五四年度中、組合と学園との間では月一回程度団体交渉が行われていたが、海野の降職処分、天野らの懲戒処分等に関する団体交渉の申入れに関しては、学園は、個人の処分問題については団体交渉に応ずる義務はない、団体交渉の議題にはならないなどとして、一切応じなかった。

(三) 右のように、学園が県総評あるいは組合が要求する団体交渉等に応じない状況が続いていたため、県総評は、事態の打開のためにはより広範な支援組織が必要であるとして、昭和五五年三月二四日、組合、高松地区労働組合連合会、日本社会党香川県本部等二三団体を構成メンバーとする大手前高松高等(中)学校教職員組合不当処分撤回支援共闘会議(以下「共闘会議」という。)を結成した。

共闘会議は、学園における不当弾圧、不当処分を撤回し、正常な労使関係を確立することにより民主的な学園を作るために組合の活動を支援することを目的とし、不当弾圧、不当処分撤回のための諸活動を行うこととしていた。また、共闘会議の議長は県総評議長で、事務局は県総評事務局内に置かれ、参加二三団体の代表から構成される幹事会によって運営されていた。

(四) 組合は、同年三月ころ、高松校の所在地番を書いた組合あての郵便物が届かなくなったことに気付き、調べたところ、学園が約三か月間、一〇通を超える組合あての郵便物を留置していたことが判明し、それらの郵便物は組合の要請で引き渡された。

その後、学園は、現在まで、組合あての郵便物については、高松校の所在地番にはあて名の者はいない旨の付箋を付けて、差出人に返送する取扱いをしている。

(五) 同年三月末、学園は、海野を講師の雇用期間満了を理由として雇止めとした。

3  天野ほか五名に対する昭和五五年八月九日付け出勤停止処分及び堀内に対する同月一〇日付け出勤停止処分等の経緯

(一) 共闘会議は、昭和五五年四月一日、二三日、五月一七日、二四日及び七月八日、学園周辺をはじめ高松市内の電柱等にビラを相当数貼付するとともに、同年四月二日から三〇日まで、五月中旬、六月上・下旬及び七月五日に高松市内を、また、四月九日から一九日まで及び七月五日には丸亀市内を、県総評等の宣伝車で走行しながら、ラウドスピーカーにより、録音テープに収録した次の宣伝文句による宣伝を繰り返し行った。

「大手前倉田康男校長は、組合との話合いに応じなさい。大手前高松高校職員組合の不当処分を撤回し、倉田理事長、倉田校長は、教育者として、憲法を守り、法律を守りなさい。こちらは大手前高松高校職員組合にかけられている不当処分を撤回する支援共闘会議です。大手前高松高校では今大変なことが起こっています。大手前倉田キヨヱ理事長、倉田康男校長は教育者でありながら、憲法、法律を無視し、先生方を不当にも処分しています。また、正式な話合いにも応じません。大手前倉田康男校長は組合との話合いに応じなさい。大手前高松高校職員組合の不当処分を撤回し、倉田理事長、倉田校長は、教育者として、憲法を守り、法律を守りなさい。大手前高松高校は、県下でただ一つの入学金先取りの学校です。大手前では学校を金もうけの手段と考え、入学金は県下の私立学校で最高です。大手前倉田キヨヱ理事長は、学園を教育の場に戻すため、組合との正式な話合いに応じなさい。大手前高松高校職員組合の海野先生を学園に戻し、明るい学園作りを共闘会議として要請します。こちらは、大手前高松高校職員組合にかけられている不当処分を撤回する支援共闘会議です。大手前高松高校は、県下でただ一つの入学金先取りの学校です。大手前では学校を金もうけの手段と考え、入学金は県下の私立学校で最高です。大手前倉田キヨヱ理事長は、学園を教育の場に戻すため、組合との正式な話合いに応じなさい。」

(二) 右の宣伝活動については、共闘会議が日程等を組み、加盟団体に対し動員要請をし、宣伝活動に参加した者は、共闘会議の指示を受けて具体的な活動を行った。ビラの文言や宣伝車による宣伝文句は、共闘会議の事務局が作成していた(<証拠略>)。

(三) 前記宣伝活動のうち、天野、組合員出井秀樹(以下「出井」という。)及び同堀内美好(以下「堀内」という。)は、同年七月八日早朝、「大手前倉田理事長は 高い学費で私腹をこやすな共闘会議」、「大手前倉田理事長は 教育をもうけの手段にするな 共闘会議」等の文言を記載したビラ相当数を電柱等に貼付した。また、組合員高橋範行(以下「高橋」という。)及び同溝淵春生(以下「溝淵」という。)は、同年五月一二日午後五時過ぎに、高橋及び同壷谷真人(以下「壷谷」という。)は、同年六月三日午後五時過ぎに、さらに、溝淵は、同年七月五日午後四時過ぎにそれぞれ宣伝車に乗っていた。

(四) 昭和五五年八月九日、学園は、天野及び出井に対して前記のビラ貼付が、壷谷、高橋及び溝淵に対して前記の宣伝車による宣伝が、いずれも学校の社会的信用を失墜させ、名誉を傷つけており、これらは、就業規則第一四条第一〇号に違反し、第六九条第五号に該当するとして、同日付けで、同月一一日から二〇日までの間、出勤停止処分にした。

この際、学園は、組合員柳井博(以下「柳井」という。)に対しても、同人が同年六月六日午後五時過ぎに宣伝車に乗車していたとして、同様に出勤停止処分とした。

また、学園は、帰省中の堀内に対して前記(三)のビラ貼付に関して、同年八月一〇日付けで、同様の出勤停止処分にした。

(五) 学園は、右の出勤停止処分の対象となった天野ほか六名に対して、同処分に伴い同年八月分の賃金、同年度の冬季一時金、昭和五六年一月に支給されたベースアップによる賃金差額を減額して支給した。また、後記のとおり昭和五六年四月から休職となった天野を除く壷谷、高橋、柳井、溝淵、出井及び堀内は、同年四月の定期昇給が一か月延伸され、同年五月に昇給となった。

(六) 学園は、昭和五五年度中、組合からの団体交渉の申入れに対し、同年五月二一日の団体交渉と地労委のあっせん等による二回(同年一月一四日及び三月一一日)の団体交渉を行ったほかは、組合員の処分・処遇問題についての団体交渉はする必要がないなどとして応じなかった。

4  天野の職歴、組合活動歴等と休職処分に至るまでの経緯

<省略>

(一) 天野は、昭和四〇年四月、高松校の社会科の教論として採用され、地理、政治経済の各教科の担当として勤務していた。同年度から昭和五一年度まで学級担任(うち、昭和四三年度から昭和四五年度までは優秀クラス)、昭和五二年度から昭和五五年度まで学級副担任を務め、この間、昭和四三年度から昭和五四年度までは社会科の教科主任に任じられていた。また、天野は、昭和五二年九月一〇日の組合結成と同時に執行委員長となり、現在に至っている。昭和五六年度末までに組合活動を理由として学園から受けた処分は、次表<上段の表=>のとおりである。

(二) 昭和五六年三月三一日、学園は、高松校における生徒数の減少に対処するためとして、天野に対し、就業規則第五五条第二項に基づき、同年四月一日から昭和五七年三月三一日までの一年間休職を命じた。右休職期間中の賃金については、学園は、天野に対して平均賃金の六割を支給した。

(三) 高松校のクラス数及び生徒数は昭和五二年度以降年々減少し、昭和五五年度から昭和五六年度までの間におけるクラス数は二〇クラスから一八クラスに、右期間中の生徒数は八三一名から七一八名にそれぞれ減少し、これに伴い社会科担当の教科総時間数は、週あたり一三一時間から一二一時間に減少した。高松校の社会科以外の科目については、昭和五六年度は、前年度に比べ、教科総時間数が、国語で一一時間、数学で一五時間、理科で一三時間及び英語で八時間それぞれ減少し、教科別の教員(教諭及び常勤、非常勤講師)の数については、国語で一名、数字で三名、理科で二名、英語で一名がそれぞれ減員となつた。

(四) 昭和五五年度及び昭和五六年度における社会科担当の教員は、昭和五六年度において天野が休職となり、県外の大手予備校に一年間出向を命じられていた教諭が高松校に復帰したことにより、いずれの年度も教諭七名、公立高校を退職して学園に再就職していた高齢の非常勤講師一名の計八名であった(<証拠・人証略>)。

5  天野の休職期間の満了による退職、非常勤講師への採用等

(一) 昭和五六年四月三日及び八日、組合は、学園に対し、天野の休職の件ほか数項目について団体交渉を申し入れたが、学園は、個人の問題であるので団体交渉にはなじまないなどとして、これに応じなかった。また、組合は、同月一六日、学園に対し、天野や海野らに対する処分を撤回し、原状に復することなどを求めた春闘要求書を提出し、その後、この要求書に基づいて団体交渉を申し入れたが、学園はこれに応じなかった。さらに、組合は、昭和五七年二月一七日、天野を昭和五七年度に職場復帰させること、また、昭和五六年度は勤務したものとして賃金を支払うことなどを内容とする要求書を学園に提出し、その後、この要求書に基づいて団体交渉を申し入れたが、学園は、学園が行った休職処分は団体交渉の議題にはなじまないなどとして、これに応じなかった。

(二) 天野は、昭和五七年三月一日、学園に対し、口頭で復職を願い出、さらに、同月一七日付けの文書で復職願いを提出したが、同月三〇日、学園は、天野に対し、右復職願いについては許可しないこと及び就業規則第五九条第二項に基づき同月三一日の経過をもって休職期間は満了し、退職となる旨を記載した同月三〇日付け通知書を交付したが、その後、香川県の指導等もあって、学園は、天野を同年四月から非常勤講師として採用した(<証拠略>)。

(三) これ以外に、学園は、同年三月三一日付けで昭和五四年六月末に生徒に対する体罰事件を理由に教諭から非常勤講師に降職処分とされていた組合員小泉宗弘を雇止めとし、同岡好孝(以下「岡」という。)、同中村益夫(以下「中村」という。)、柳井及び同草野晃を非常勤講師に降職とした(岡及び中村の降職に至る経緯については後記6参照)。

(四) 組合は、同年四月五日、一三日、一九日及び二八日、学園に対し、天野ら組合役員七名の休職期間満了による退職扱い、雇止め又は非常勤講師への降職処分を議題とする団体交渉の開催を申し入れたが、学園は、団体交渉になじまないとの理由でいずれもこれを拒否した。

6  岡及び中村の降職処分に至る経緯等

(一) 岡は、組合結成以来、昭和五二年度は書記長、昭和五四年度は副委員長、昭和五五年度は書記長を務めていた。中村は、組合結成以来、昭和五三年度は会計監査、昭和五四年度は書記長、昭和五五年度は書記次長を務めていた(組合の年度は、当年九月から翌年八月末までの期間である。)。また、岡及び中村は、昭和五六年三月二七日付けで、昭和五五年二月から同年一二月までの紙筒闘争等の組合活動を理由として、天野とともに、学園から四日間の出勤停止処分を受けている(<証拠略・人証略>)。

(二) 生徒指導部は、昭和五五年度において、高松校在校生の服装の乱れや遅刻が目立ち始めたため、輪番制による遅刻指導を行ったが、これについて学園からは特に異議が述べられることはなかった。

(三) 倉田校長は、昭和五六年四月三日開催の職員会議の席上、新年度の校務分掌表を発表するとともに、生徒の服装が乱れてきたことの対策として、同分掌表で生徒指導部の生徒指導係(校内担当)に指名された組合員小松弘(以下「小松」という。)、岡、中村及び大町幸子の四名中、女性で養護教諭である大町幸子を除いた三名に対し、翌四日以降当分の間、毎朝高松校の玄関前で、就業規則に定められた始業時刻より一五分早い午前八時一五分から四〇分まで生徒の服装指導をするよう命じた(以下この命令を「本件早朝生徒指導命令」という。)。高松校における校務分掌の分担期間は一年間であり、本件早朝生徒指導命令中の「当分の間」の趣旨は、倉田校長、岡及び中村ともに一年間の趣旨であると理解していた。また、高松校においては、過去に一年間にわたり始業時間が繰り上げられた例はなかった。

本件早朝生徒指導命令が発せられた際、岡及び中村は、それぞれ、「突然言われても困る。家の都合がある。」などと発言したが、司会をしていた吉田教頭が「さらに意見があれば後にしてください。」などと発言して次の議題に移り、その後この点についてのやりとりがないまま、職員会議が終わった。

なお、高松校では、当日の学校行事に関する注意事項等が伝達される職員朝礼が毎朝午前八時三〇分から三五分にかけて行われていた。

(四) 高松校の校務分掌については、校長が決定し、毎年度の第一回目の職員会議で発表されるのが例であった。また、従前の校務分掌においては、生徒指導部の生活指導係の下に更に細かく分掌が分けられたことはなかったが、昭和五六年度からは同係が校内担当と校外担当に分けられることとされた(<証拠略>)。

(五) 一方、生徒指導部は、生徒の服装指導や遅刻指導について、生徒指導部員の輪番制による指導を行うこととし、四月一三日から一八日までの期間、毎朝午前八時一五分から九時四〇分まで高松校の玄関前で、同八時四〇分から五〇分まで同校の二・三号館二~四階非常扉前等で、同八時四〇分から九時四〇分まで視聴覚教室で、それぞれこれらの指導を行うことを内容とした「昭和五六年度四月生徒指導(校内)計画」を作成したが、倉田校長から同計画が、岡、中村ら三名が毎朝玄関前で服装指導を行うことになっていないとして、却下された。その後も、生徒指導部は、輪番制の生徒指導計画を作成したが、同年六月ころ、同じ理由で学園から却下されたことがあった。

なお、小松は、本件早朝生徒指導命令に従い、当初を除き、昭和五七年三月まで玄関前で服装指導を行った。

(六) 昭和五六年五月一日、始業時刻前、岡は、職員室において高松校教頭補佐西山寛に団体交渉を申し入れ、居合わせた倉田校長にも同様の申入れをしたが、その際、倉田校長が「玄関前のところで指導していなければいかん時間じゃないですか。」と述べたところ、岡は、それは四月三日以来保留されているはずである旨答えた。

倉田校長は、同月六日岡に対して、同月一九日中村に対して、それぞれ校長室に呼んで本件早朝生徒指導命令に従うように指示した。これに対し、岡及び中村は、生徒指導部が作成した輪番制による生徒指導計画に従って指導を実施しているので、それについては生徒指導部と話をして欲しい旨、及び本件早朝生徒指導命令には、就業時間の変更等労働条件にかかわる問題も含まれているので、組合とも交渉をして欲しい旨を述べた。

(七) 同年五月二二日、組合は、倉田校長の同月六日及び同月一九日の岡及び中村に対する発言に対し抗議するとともに、このような労働条件の一方的変更に関して、組合と早急に交渉を持つよう要求する旨の抗議文を学園に提出した。また、組合は、本件早朝生徒指導命令による労働時間の変更は労働条件に関する問題であるとして、同月二三日には同命令に伴う就業時間の変更ほか二件を議題とする団体交渉を開催するよう申し入れたが、学園は、個人の問題であるので団体交渉になじまないとしてこれに応じなかった。さらに、組合は、同年六月一日、四日及び二三日、学園に対し、同命令に伴う就業時間の変更を議題とする団体交渉の開催を申し入れたが、学園は応じなかった。

(八) 一方、倉田校長は、同月上旬、生徒指導部の部長である野口生徒指導主事(以下「野口主事」という。)に対し、岡及び中村に本件早朝生徒指導命令による指導を毎朝実施するよう伝えることを指示し、野口主事は、生徒指導部会で倉田校長の話を両名に伝えた。

さらに、野口主事は、二学期及び三月期に一度ずつ倉田校長から同様の指示を受け、両名に対しその趣旨を伝えた。

(九) 倉田校長は、同年七月八日、岡及び中村に対し、「就業規則第一五条に基づき、同年度勤務時間については、始業時刻を午前八時一五分に、終業時刻を午後五時に変更する旨同年四月三日に通知したが、正当な理由なくして指定の時刻に登校せず、その後、岡に対しては同年五月一日及び同月六日、中村に対しては同月一九日、それぞれ指定の時刻に勤務するように注意したにもかかわらず、故意に業務命令を無視し続けていることは就業規則第一四条第五号の違反であり、責任追及する権利を留保することを通告する」旨の同日付け警告書を交付した。

(一〇) 学園は、同年八月四日、岡及び中村に対し、右警告書の交付後も勤務時間の変更指示に従わなかったことを理由として、「故意に業務命令を無視し遅刻し続けたことは、就業規則第一四条第五号違反であり、同規則第六八条第五号並びに同条第九号の規定により八月五日から同月一〇日までの間出勤停止にする」旨の同日付け出勤停止処分通告書を交付した。

(一一) 組合は、同月八日、学園に対し、岡及び中村の出勤停止処分などを議題とする団体交渉の開催を申し入れ、同月一二日、二二日及び二九日にも同様の申入れを行った。また、組合は、同月二九日、団体交渉の申入れを行った際、本件早朝生徒指導命令の違反を理由として組合役員を処分したことについては、組合に対する弾圧であると学園に抗議した。

その後も組合は、同年九月に四回、一〇月に三回、一一月に一回、岡及び中村の出勤停止処分などを議題とする団体交渉の開催を申し入れたが、学園はいずれもこれに応じなかった。

(一二) 学園は、昭和五七年三月三〇日、岡及び中村に対し、本件早朝生徒指導命令違反に対する注意及び出勤停止処分にもかかわらず、昭和五六年度末に至るまで違反行為を続けたことを理由として、非常勤講師に降職する旨の同月三一日付け降職処分通知書を送付した。

7  岡及び中村の雇止めに至る経緯等

(一) 昭和五七年四月五日、一三日、一九日及び二八日、組合は、岡、中村の非常勤講師への降職処分等を議題とする団体交渉を開催するよう申し入れたが、学園はこれに応じなかった。

(二) 学園は、その後、昭和五八年度及び昭和五九年度について両名を非常勤講師として雇用契約の更新をしたが、昭和六〇年度については更新しないこととし、昭和六〇年三月二九日付けで、両名に対し、「契約期間は、昭和六〇年三月三一日の経過をもって終了しますので、同年四月一日以降は登校される必要はない。」旨の通知書を送付した。その結果、両名は高松校の非常勤講師としての身分を失った。

8  高松校における職員の身分

高松校においては、就業規則等に基づき、職員の身分及び職階は、<1>教育職員、<2>その他の職員、<3>雇員に大別したうえ、教育職員については、校長、教諭、養護教諭、助教諭、講師に分かれ、さらに、講師については、常勤講師と非常勤講師とに区分されている。そのうち、教諭、常勤講師及び非常勤講師は、次のように取り扱われている。

(1) 教諭 満六〇歳を定年とするいわゆる終身雇用が予定されている。

(2) 常勤講師 雇用期間は一年とされ、更新のされない限り、その期間の経過により講師の身分を失う。賃金は月給制である。

(3) 非常勤講師 雇用期間は一年とされ、更新されない限り、その期間の経過により講師の身分を失う。賃金は、時間計算給である。

9  不当労働行為救済の申立て

組合は、学園を被申立人として、前記天野らに対する宣伝活動を理由とする出勤停止処分、天野に対する休職処分並びに岡及び中村に対する出動停止処分につき昭和五六年八月八日、前記岡及び中村に対する降職処分及び天野に対する休職期間満了による退職につき昭和五七年六月二二日、岡及び中村に対する雇止めにつき昭和六一年三月二五日、それぞれ地労委に不当労働行為救済の申立て(香労委昭和五六年(不)第二号、昭和五七年(不)第四号(一部)、昭和六一年(不)第一号(一部)事件)をし、地労委は、平成元年九月八日付けで別紙二の主文の初審命令を発した。学園は、初審命令を不服として被告に再審査の申立て(中労委平成元年(不再)第九九号事件)をしたが、被告は、平成六年四月二〇日付けで別紙一の命令(以下「本件命令」という。)を発し、本件命令書の写しは、同年六月二日、学園に交付された。

二  争点

学園のした次の行為が不当労働行為となるか否かである。

1  天野ほか五名に対する昭和五五年八月九日付け出勤停止処分及び堀内に対する同月一〇日付け出勤停止処分(前記一3(四))

2  天野の休職処分及び休職期間満了による退職(前記一4(二)、同5(二))

3  岡及び中村に対する出勤停止処分、降職処分及び雇止め(前記一6(一〇)、(一二)、同7(二))

三  学園の主張

1  天野らに対する昭和五五年八月九日付け出勤停止処分及び堀内に対する同月一〇日付け出勤停止処分について

(一) 天野らの行った宣伝車等による宣伝活動の宣伝内容には、「高い学費で私腹をこやすな」、「教育をもうけの手段にするな」、「大手前では学校を金もうけの手段と考えている」等の内容が含まれ、これにより地域社会における名誉、信用が著しく傷つけられた。学園のような私立学校においては、生徒募集の問題は、いわば経営の根幹にかかわるものであるとともに、地域社会における名誉、信用、評価に左右される。これが傷つけられることによる経営上の損失あるいはその危険性は、他の企業等に比べることは到底できないほど大きい。しかも、右の宣伝内容は、天野らの労働条件ないし労働者としての待遇との関連性を全く欠くから、正当な組合活動ということはできない。

(二) 本件命令は、前記宣伝内容、活動等の態様がもっぱら共闘会議により決定され、天野らは共闘会議の要請を受けてこれに参加したとし、天野らの責任があたかもこれにより軽減されるかのように言及しているが、全く不当である。

共闘会議は、組合の処分撤回運動を支援するために組織されたものであり、その宣伝内容を含めて具体的な宣伝活動等の態様を決定する際、特段の事情のない限り、多分に天野らの見解等が取り入れられていると考えるべきである。しかも、天野らは、宣伝内容、態様がいかなるものかを十分認識して宣伝活動に参加しているから、その参加が共闘会議の要請によるものか否かということは、その行為の悪質性に何の関係もない。

(三) 本件命令は、学園が懲戒処分問題につき団体交渉を拒否していたことをあげて、天野らを出勤停止処分にしたことを苛酷であるとするが、個人の処分問題については団体交渉に親しまないとする学園の立場には合理性がある。団体交渉はいわゆる利益紛争の解決のためには適した方法であるが、特定の規範を前提としてこれに特定の事実をあてはめて一定の結論を出したことが正しいか否かを判断する権利紛争(例えば懲戒処分)の解決には、裁判、仲裁等が適当であって、団体交渉の対象とするのは適当とはいえない。

さらに、海野、天野等の処分問題については、学園は、組合との間において団体交渉をもたなかったが、組合の加盟団体である県総評の代表者との間において交渉をしており、昭和五五年四月には人数を絞った交渉を提案している。

2  天野の休職処分及び休職期間満了による退職について

(一) 天野に対する休職処分は、高松校における生徒数が減少したことによる措置であるが、生徒数減少その他諸般の状況を考慮して教員の減員を図る際、欠員の不補充、配置転換、休職処分等の諸形態のうち、いずれを選択するかは、経営者の自由裁量に属することであり、過去にそのような例がなかったことをもって休職処分が許されなくなるものではない。また、休職処分を選択する際、これが事実上解雇に準ずるものであるから、慎重に対応することを要することは勿論であるが、本件のように、対象者に解雇事由に相当する事情の存する場合においては、極力これを避けるための手段を講ずることまで要求されるべきものではない(以上の意味において、本件休職処分は、整理解雇の側面と普通ないしは懲戒解雇の側面を併せ持つものである。)。

(二) 本件命令は、天野を休職処分の対象として選定した学園側主張の主たる理由が疎明されていないか、これがあるとしても休職処分を正当化するに不十分であるかのように判断するが失当である。

すなわち、天野は、これまでに前記前提となる事実4(一)の処分一覧表掲記のとおり、組合委員長として各種違法組合活動を指揮し、自ら参加し、懲戒処分、警告を受けており、これらの処分等の対象になった行為は明白に違法活動であり、これらを考慮すると、天野には懲戒解雇に値する事由が存していた。

また、天野のクラス管理については、同人の優秀クラスの担任当時には、生徒の現役国立大学合格者はおらず、他の教員の実績に比べ劣悪であった。その後、天野は、普通クラスの担任時には、自主性の名のもとに生徒を放任し勝手気ままな風潮がでてきたので、担任をやめさせたこともあり、クラス担任能力が欠如していた。

以上のように、天野が他の社会科の教員に比し著しく勤務成績が悪かったことは明白であり、他の教員との比較検討は即時に行い得たものである。

(三) 天野の休職処分満了による退職については、先行する休職処分が不当労働行為ではなく適法有効なものであり、期間満了の際、同人の復職願い出を学園が適正に不許可にしたことにより天野は退職したにすぎず、右退職は不当労働行為に当たらない。

3  岡及び中村の出勤停止処分、降職処分及び雇止めについて

(一) 本件命令は、本件早朝生徒指導命令は、一年間にわたり一五分間の繰上げ出勤を伴うものであるから、命令を受けた職員にとって、<1>家庭事情、交通事情等との関係で日常生活への影響、<2>職員朝礼に出席できなくなることによる業務上の支障により、過重な負担となるとするが、現実には、岡、中村を含む組合員は、午前八時一〇分ころから登校し、雇止めとなった海野の支援活動に参加していたものであり、右<1>の点は疑わしい。<2>についても、担任でない岡、中村が職員朝礼に出ることは必須でないことなどから特別の支障があるわけでもない。また、学校においては、全て役目が一年単位で交代するので、一年間という期間が特に長期に負担を強いていることにもならない(なお、岡及び中村とともに命令を受けた小松は、校務分掌の係の仕事と判断し一年間これを遵守し実行しており、この点からも本件早朝生徒指導命令が異常なものではなく正常なものであったといえる。)。

(二) 本件命令は、生徒指導部の自主的な取組みに着目した論理を展開するが、同部は、校長(学園)の下部・補助機関に過ぎず、校長の命令に服する。学園は、前年度の指導の効果が上がらず、生徒の服装の乱れや遅刻が目立ち始めたため、岡、中村らに対して本件早朝生徒指導命令を発し、同部が立案した輪番制による計画を拒否却下していたものである。

(三) 昭和五六年八月四日の出勤停止処分後、岡及び中村が本件早朝生徒指導命令に従っていないことにつき、他の者を充てることは校務分掌上不可能であり、学園は、岡及び中村に対して重ねて注意・指示をしていた。また、生徒指導部作成の輪番制は、同年四月及び六月に校長に却下されてから作成されておらず、これに従った指導も実行されていないから、岡及び中村が生徒指導部の輪番制に従ったという事実もない。このことからすると、学園の対応に何ら不自然な点はない。

(四) 学園が本件早朝生徒指導命令に伴う就業時間の変更につき団体交渉の申入れに応じなかったことについては、右就業時間の変更は、就業規則第一五条ただし書に基づきその範囲でなされたものであり、学園は団体交渉を経ることなくこれを行い得るのであるから、何ら非難されるべき点はない。また、本件命令の論じるように、関係者間において臨時的な必要性が生じたときに右規定が適用されると解されていたとされる証拠もない。

なお、昭和五六年五月二七日に組合が本件早朝生徒指導命令を拒否することとした旨の機関決定がなされたとの事実は存しない。

(五) 岡及び中村は執拗に校長の命令を無視し反抗し続けたものであり、両名の行為は懲戒解雇に値する事由がある。降職処分は、懲戒解雇に値する事由が備わっている場合においてこれを緩和する措置として、かつ、労働者がこの下げられた職に拘束されない(降職が不満であれば辞職できる。)場合に降職処分が許される。したがって、両名に対する降職処分が実質的に解雇に準ずるものであるから、本件早朝生徒指導命令に従わなかったことに対する処分としては苛酷であるとする本件命令の判断は、失当である。

(六) 学園が、昭和五六年度以降昭和六〇年度まで組合員のみを早朝生徒指導に当たらせた点について、全部の教員の中で常勤の者を充てるとした場合、早朝生徒指導に当たらせることが適切でない校長、教頭、教務主任、学級担任、女子、新採用の講師、六〇歳以上の講師、病弱者を除くと、たまたま当時の教員の構成上その全てが組合員となったもので、意図的に組合員のみを充てたわけではない。

(七) 以上のとおり、降職処分は有効であり不当労働行為性は認められないから、これに続く期間満了による雇止めも完全に有効である。

(八) なお、岡は、昭和六三年度末、学園を任意退職し、かつ、組合からも離脱してニュージーランドに渡航し現在に至っており、平成元年一月以降、同人については救済の利益が失われている。

4  不当労働行為意思について

(一)(ママ) 本件命令においては、昭和五二年九月一二日の理事長発言、組合あて郵便物の留置、団体交渉拒否等が不当労働行為意思認定の資料とされているが、次のとおり失当である。

(1) 右理事長発言は、地労委において(香労委昭和五三年(不)第二号事件)、不当労働行為ではないと判断されて確定済みであり、右確定した地労委命令を無視して不当労働行為意思認定の資料とすることは、一事不再理、既判力等の法理を否定するものであり違法である。

(2) 組合あて郵便物留置の問題については、学園は組合に対し、組合事務所を学内に貸与したことも、その設置を許諾したこともないにもかかわらず、組合は無断で対外的にその所在地を学園高松校内と標榜していたので、事実上組合あて文書が高松校に到達していた。そこで学園は組合に当初から右標榜等をしないよう要求していたが組合はこれを改めないできたものである。そこで、右事態に対処するため、学園は郵政当局と相談のうえ、名宛人不在の付戔を付して組合あて文書を発信者に送り返すことにしたものである。右相談等のため一、二か月を要し、その間郵便物を便宜保留したが一時的なものであった。したがって、このことが別段組合嫌悪と結びつく行為などといえるものではない。

(3) 団体交渉拒否については、前記1(三)のとおりである。

四  被告の主張

被告の認定事実及び判断は、別紙一の本件命令書記載のとおりであり、本件命令に誤りはない。

五  組合の主張

1  天野らに対する昭和五五年八月九日付け出勤停止処分及び堀内に対する同月一〇日付け出勤停止処分について

(一) 右各出勤停止処分は、組合結成以来続けられている学園の不誠実な団体交渉の姿勢に対して抗議したり、その抗議行動などを理由として降職処分とされ、かつ、一年後に解雇された海野組合員の降職処分(解雇)撤回を求める運動に参加したことを理由として行われたものであるが、学園は違法な解雇や団体交渉拒否という労使間の正規の手続を拒否する行動をとったため、共闘会議はやむを得ず世論に訴える行動を行ったのであって、その責任はむしろ学園にあるというべきある。それにもかかわらず組合員に一方的に処分を発したのは、労使紛争が多発する中で組合らの組合活動を抑圧する意図で行われたものである。また、本件ビラ貼付及び宣伝車による街頭宣伝活動は、共闘会議の主体性のもとに企画され、宣伝内容と宣伝方法が決定され、共闘会議の指示のもとに組合員が参加していたものである。

(二) 共闘会議のしたビラ作成・貼付、宣伝車による宣伝活動に天野らが参加したことは、未だ正当な組合活動の範疇にあるものというべきで、私立学校という公教育を行う学校法人において、さまざまに疑惑を抱かせる事実があったがために、これを公にするという公共の利益のために行ったものであるから、その責を問うことはできない。宣伝車における宣伝の第一義は憲法や労働組合法を守ることを学園に求めたもので、これらの法律に照らして話合いによる解決を求めていたものである。また、学園は共闘会議の宣伝活動により名誉が損なわれたと主張しているが、そのような結果を生じたという事実はない。

2  天野に対する休職処分、休職期間の満了による退職について

(一) 学園における休職処分は、復職を許可されなければ自動的に退職扱いになるという労働者にとって決定的な待遇の変更であるから、社会通念上是認し得る理由を具備して初めて発令し得るものである。しかし、以下にみるように、天野に対する休職処分発令にはかかる相当とする理由はなく、学園が恣意により行ったとしか判断できない。

(二) 天野は、昭和五六年度に教員が過剰になることを口実に休職処分が命ぜられたが、教員が過剰になっていた事実はない。仮に人員が過剰であったとしても、一年契約の非常勤講師の雇用が続けられたまま天野の休職が命じられており、人員過剰が事実のものであれば、非常勤講師を雇止めすれば天野に休職を命ずる必要はなかったのである。なるほど、在学生徒数は前年度に比べて減少した事実はあるが、そのことをもってただちに教員に余剰が生じたとはいえない。教員配置に余裕があるのであれば学級定員の削減など教育条件の改善に差し向ければ余剰は解消するのであって、何をもって人員余剰とするかの基準は極めて抽象的である。また、学園は、財政的根拠を一切示さずに休職処分を発令している。

しかも、同年度はいわゆる丙午年生まれの生徒が高校に進学してくる年度にあたり、単年度としては生徒数が減少するものの、一、二年後には回復し、数年後には第二次ベビーブームと呼ばれる生徒増の時期が来るのは人口統計上明らかとなっており、教員が足りなくなることは確実となる見通しがありながら、翌年度早々と天野に解雇を言い渡したのである。これは、そもそも解雇を目的とした休職処分であったからであって、学園からの追出しを図ったものである。

(三) 天野の休職の理由となった共働きということは、そのことで直ちに経済的に困らないということはできない。また、天野の教育活動については、何ら問題とされるべき点はない。学園のいう勤務成績については、天野が休職処分を受ける一〇年も前のことであり、しかも、学級管理には何ら問題がなかった。また、学園は、天野が多数の懲戒処分を受けていることを休職を命じた理由にしているが、同人に対する懲戒処分は、学園の団体交渉拒否に対して団体交渉の開催を求める組合の要請行動を理由として行われたものである。

(四) 学園がどうしても休職者を出す必要があるのであれば、休職希望者又は退職希望者を募るなど自主的な申し出がないか調査し、それでも申し出がない場合は交代で休職させるなど、不利益が個人に集中しないように最大限の努力を払うべきが筋である。そのような努力を全くせずに、こともあろうに組合執行委員長を指名したのは、極めて作為的、差別的な人事である。また、学園は、天野を休職処分にした際、七〇歳の社会科の非常勤講師の採用を続け、天野を解雇した後も新規に社会科の教師を採用するなどしている。

(五) 天野は昭和五七年三月末をもって解雇通告を受けているが、同時に非常勤講師として再雇用されている。非常勤講師とはいえ、再雇用するということは、そもそも解雇の必要性が存在しなかったことを示すものである。

3  岡及び中村の出勤停止処分、降職処分、雇止めについて

(一) 学園が本件早朝生徒指導命令の根拠とする就業規則ただし書の規定は、高松校では、臨時的な必要が生じたときに適用すると解されており、実際入学試験等の一日又は数日程度の勤務時間の変更のように例外的な場合にのみ適用されるものである。岡及び中村に対する一年間にわたる勤務時間変更の命令は、学園が定めた就業規則に違反するもので無効である。学園は、このように組合員に対して自ら定めた就業規則に違反してまで勤務時間変更命令を出して差別的取扱いを行ったばかりでなく、さらに同人らに降職処分を行ったが、岡及び中村の行為は就業規則に違反する命令を拒否したもので正当な行動であり、業務命令に従わなかったとするような学園の処分理由は存在しない。

(二) 仮に学園が勤務時間を変更できるとしても、本人らが異議を唱え、組合からこのことについて団体交渉の申込みを受けているのであるから、誠実に団体交渉に応じ、必要な勤務時間の変更であるなら少なくともその必要性を組合や本人に説明すべきである。学園は、一か月ごとの交代とか、学期ごとの交代とかの提案もなく、こうした説明も全くせず、団体交渉拒否をしたままで、一方的に出勤停止処分を通告し、さらには降職処分を通告したもので、まさに他意から出た行為である。

(三) 輪番制については、昭和五五年度に生徒指導部全体で担当日を決めて生徒の服装指導や遅刻指導が実施されていた。本件早朝生徒指導命令は、昭和五五年度に生徒指導部で行った輪番制による遅刻指導が行われている事実を知りながら、そして昭和五六年度も生徒指導部が輪番制を採用しているのを知りながら、組合員三名に対してのみこれを命じたものである。

(四) 岡及び中村は、生徒指導部の協議に従って生徒の登校指導に当たっており、実態として全く命令に従わなかったというわけでもなく、また、生徒指導部の登校指導によって目的は果たされているのであるから、もはや命令に固執する必要はなく、処分を発令する必要性は消滅しているというべきである。

(五) 当時岡は組合の書記長、中村は書記次長を務めており、そのことを嫌悪した学園が、嫌がらせのために岡及び中村に生徒の登校指導に当たらせようとしたものである。早朝生徒指導が効果をおさめるには、学校現場の実情からして生徒の日常の生活の実態を熟知している学級担任が入っているのが望ましいのに、これを意図的に排除しており、この早朝生徒指導は、昭和六〇年に中止されるまで、毎年組合員のみが指名され、不利益な取扱いを受けてきているのである。

(六) 岡及び中村に対する降職処分については、降職処分を定める就業規則第六七条第四号には、「始末書を提出させ、身分又は職階を下げ若しくは剥奪する。身分又は職階に対し特に支給した給与は、降職により支給しない。」と規定し、始末書が将来の労使関係の円滑化を図ることを期待して提出を求めるものであると解釈されることから、降職は身分の継続を前提としたものであると解釈されなければならない。

また、一般に降職は、その職階を変更、剥奪されることにより経済的不利益を受けるにとどまる処分であって、その労働契約の基本となっている契約内容を変更することができないのは、労働契約が労使双方の合意に基づいて締結されているのに対して、懲戒が経営者の一方的な意思に基づいて行われることからも明白である。

ところが、岡及び中村はいずれも教諭としての扱いを受けるものとして学園との間で労働契約を結び、教諭職の賃金と満六〇歳に至るまでの雇用が保障されていたのに、教諭から講師に降職処分された後、講師の契約期間は一年間であるとして後に雇止めされており、教諭職の月給から時間給へ変更となり、賃金が減少している。職務内容についても、教諭は授業を担当するだけでなく、学級担任やクラブ顧問となったり各種学校行事に参加して生徒の広範な人格形成に与り、その他の校務分掌を通じて、また、会議に出席して学校運営に参画するものであるのに対し、非常勤講師は、授業を担当する以外の教育に直接参加することはない。

以上の事実に照らせば、両名に対する降職処分は労働契約の基本となっている内容を一方的に変更するという就業規則にあらかじめ規定されていなかった扱いを学園がなしたものであり、労働契約に反するものであって無効であるばかりでなく、学園が定めた就業規則にも違反するもので無効である。

(七) 天野に対する休職期間満了による退職と、岡及び中村に対する非常勤講師への降職処分は、昭和五七年三月三一日に発令された。また、学園は、同日、小泉を雇止めにし、柳井、草野を非常勤講師に降職した。右のとおり学園は処分の基礎となる事実関係が異なるのに、同一日に事実上六名の組合員を解雇にしたも同然である。学園が解雇に相当する降職処分を行ったのは、もっぱら岡及び中村を学園から排除することを目的としたもので、昭和五九年一二月に出された仮処分決定直後の年度末である昭和六〇年三月三一日に、何ら雇止めの必要がないのに早速雇止めに及んでいるのは、そもそも同人らを学園から排除する目的で行った降職処分であることを証明している。

(八) 岡は、本件が確定したならば復職する意思を明確にしており、学園主張のように降職処分を認めて任意退職するという態度を取っているのではない。

4  不当労働行為意思について

学園は、組合結成直後から、倉田キヨヱ理事長が、組合の結成を認めず、昭和五二年九月一二日、「組合と学園は利益が反する。行くところまで行く。」と述べ、団体交渉を拒否し、その一方で組合員に対する脱退工作を行い、組合ニュースの配布や職場集会等の学内での組合活動については、勤務時間外であっても原則一律全面禁止の方針をとり、その後も、組合活動を理由として組合員を大量に処分したほか、組合員を配置転換するなど組合員減らしを図り、組合との団体交渉について不誠実な態度をとっている。また、学園は、第二組合である教育研究会とは極めて良好な関係を保つ一方で、組合に対しては支配介入を強めている。さらに、学園は、昭和五五年三月に組合あての郵便物を隠匿したり、組合員に対して一時金差別を行うなどしている。これらのことからも、学園に一貫した不当労働行為意思が存することは明らかである。

第三争点に対する判断

一  天野ほか五名に対する昭和五五年八月九日付け出勤停止処分及び堀内に対する同月一〇日付け出勤停止処分について

1  前記前提となる事実3(一)ないし(五)によれば、共闘会議は、昭和五五年四月から七月にかけて、学園周辺をはじめ高松市内の電柱等にビラを相当数貼付するとともに、高松市及び丸亀市内において、宣伝車で宣伝を行ったが、天野、出井及び堀内が、ビラ相当数を電柱等に貼付し、高橋、溝淵及び壷谷が、宣伝車に乗るなどして右宣伝活動に参加したというものである。

2  右の宣伝車による宣伝内容は、学園の入学金の徴収方法に言及しながら学園当局が学校を金もうけの手段と考えている旨の表現が含まれ、また、ビラの内容についても、倉田理事長が、教育を金もうけの手段とし、学費で私腹を肥している旨の表現が含まれている。そして、宣伝車による宣伝の内容は、組合との団体交渉に応じ、組合員らの処分を撤回することを求めることが基調になっているものの、全体としてみれば、学園が「学校を金もうけの手段と考えている」ことから、職員を処分したのではないかとの印象を与えかねないものである。しかしながら、学園が教育を金もうけの手段とし、学費で私腹を肥している旨の表現については、証拠(<証拠略>)によれば、学園の土地の取得方法や、学園の役員が学園の敷地内に家を新築するなどして居住していること、入学金を先取りしていることなどをその根拠としているものと窺われるが、これらの事柄をもって、右のように結論付けるのには明らかな飛躍があるのであって、学園が教育を金もうけの手段とし、学費で私腹を肥していることについては、これを認めるに足りる証拠はなく、また、そのように信じるにつき相当の理由があったとも認められない。したがって、共闘会議の名の下に行われた右のビラ貼付及び宣伝車による宣伝活動は、その宣伝の方法をも併せて考慮すると、これが一般公衆に誤った印象を与えるものであることは明らかであり、学園の名誉及び信用を毀損する行為であって、違法との評価を免れないというべきである。

3  次に、右宣伝活動に対する組合員の関与の状況については、前記前提となる事実2(三)、3(二)及び(三)によれば、共闘会議は、県総評が中心となって、組合、高松地区労働組合連合会、日本社会党香川県本部等二三団体を構成メンバーとして結成され、その運営は、参加団体の代表から構成される幹事会によって行われていたこと、宣伝活動については、共闘会議が日程等を組み、動員の要請をしていたこと、宣伝活動に参加した者は、共闘会議の指示を受けて具体的な活動を行っていたこと、ビラの文言や宣伝車による宣伝文句は、共闘会議の事務局が作成していたこと、組合員らの前記宣伝活動も、共闘会議の要請・指示のもとに行われたことが認められる。このように、ビラの貼付及び宣伝車による宣伝活動が、共闘会議を実質的な主体として行われたものとしても、前記前提となる事実2(三)のとおり、共闘会議の活動の目的自体が、組合員に対する処分を撤回させ、組合の活動を支援するものであることから、共闘会議の活動による利益は第一に組合及び組合員らに帰属するものであるし、宣伝内容に関する情報の提供は組合からなされたものと考えるほかはなく、宣伝方法の決定に当たっても、組合及び組合員らの意向に反して共闘会議が独自に決定して実行するとは考えられないところである。また、処分を受けた組合員らは、いずれも実際に活動に参加するなど積極的な関与をしており、しかも、問題となった宣伝内容については組合員らの労働条件との関連性がないことなども考慮すると、組合員らが宣伝活動に参加したことは、正当な組合活動の範囲を逸脱したものというべきである。

4  ところで、従来からの学園側の組合に対する対応については、前記前提となる事実2及び3並びに証拠(<証拠略>)によれば、昭和五二年九月一二日、天野ら組合執行部役員七名が倉田理事長に対して組合結成の通告を行った際、倉田理事長が「組合とは、利益が相反する。行くところまで行く。」、「なんやら知れん、得体の知れんもんとは、団交できん。」などと発言したこと、学園は、組合結成の後も、組合が法律上の資格審査を経ていないことを取り上げて団体交渉に消極的な態度をとっていたこと、学園内での組合活動については勤務時間の内外を問わず、特に許可された場合を除いては全面禁止の方針をとり、組合ニュースの配布や職場内での集会等の活動について、ことごとに処分や警告を発するなどして右の方針を厳格に完遂しようと努めていたこと、昭和五四年度から昭和五五年度を通じて処分を受けた組合員の処遇についての団体交渉の申入れに対し、個人の処分問題については団体交渉になじまないなどとして一切応じなかったこと、昭和五五年三月ころには、学園が組合あての郵便物を約三か月間留置したことが認められ、以上の事実に徴すると、学園は、組合の結成当初から組合及び組合員の活動を嫌悪していたものと認められる。

ところで、これらの点につき、学園は、右の理事長発言が地労委において不当労働行為ではないと判断されて確定済みであるから不当労働行為意思認定の資料とすることができない、また、個人の処分問題については団体交渉の対象とするのは適当ではない、さらに、組合あて郵便物留置の問題につき、組合に対して対外的にその住所地を学園高松校内としないよう要求していたのに組合がこれを改めないできたため、郵便物の取扱いを決定する間、組合あて郵便物を便宜保留したに過ぎないなどと主張するが、学園側のとった措置の当否はともかく、これら一連の事実から、学園が組合及び組合員の活動を嫌悪していたと認定する妨げにはならないというべきである。

5  また、組合員が前記宣伝活動を行うに至った経緯については、前記前提となる事実2から窺われるように、組合と学園との間に激しい対立があり、組合員らの活動に対して学園が多数の懲戒処分を行い、こうした処分の当否をめぐって組合が団体交渉を求めていたが、学園は、個人の問題については団体交渉に応じないなどとして、組合からの団体交渉の要求を一切拒否し、高松校PTA等の第三者を交えた交渉も決裂していたところ、共闘会議が宣伝活動を開始する直前には、学園が組合役員であり前年度非常勤講師に降職された海野を雇止めするなど処分をエスカレートさせていたなどの事情が存することからすると、組合が学園との自主的な交渉により事態を打開することに手詰りの感をもっていたことは推測するに難くなく、また、このような事態に至ったことについて、従前からの学園の団体交渉に対する不誠実な態度に起因している面があることも否定できない。

6  右のとおり、学園は、組合の結成当初から組合及び組合員の活動を嫌悪していたものであり、組合員が宣伝活動を行うに至る経過の中で学園側のとった対応に問題がなくはないけれども、先に認定した宣伝活動の内容及び態様によれば、この宣伝活動によって一般公衆に誤った印象を与え、その後の生徒募集に重大な影響を及ぼし、地域における私立の教育機関である学園にとって回復し難い損害を与える危険が存するというほかなく、学園が宣伝活動に参加した組合員らを懲戒処分に付すること自体は相当と考えられるのであって、しかも、主として賃金上の不利益を伴うにとどまる出勤停止処分が選択されているのであるから、天野ら及び堀内に対する各処分について、懲戒権を濫用したと解することはできず、仮に非組合員であってもこのような活動を行ったことを理由として出勤停止処分に付することが不当に重い処分であるとも解されない。そうすると、学園のした出勤停止処分が、不当労働行為意思に基づくものということはできない。

なお、柳井については、証拠(<証拠略>)によれば、同人に対する出勤停止処分は、昭和五五年六月六日に柳井が宣伝車に乗車しているところを目撃した旨の高松校教頭補佐平畑博敏の報告を基になされたことが認められるが、右平畑は、地労委の審問において、宣伝車に乗って前を向いている男の横顔を左後方五、六メートル離れた地点から二、三秒間見て、その男が柳井であると認めた旨供述していること、これに対して、柳井は、同年四月七日には宣伝車に乗車していたことを自認したが、処分理由とされた六月六日には乗車しなかった旨供述していることが認められる。右の柳井の供述態度に加え、平畑の目撃状況も勘案すると、柳井が六月六日に乗車していたとの平畑の供述に信用性があるということはできないから、柳井が処分理由となった昭和五五年六月六日に宣伝車に乗車した事実を認めることはできない。しかしながら、学園が右処分をした動機は、学園において柳井を行為者と誤認していたためであって、このことによって懲戒処分の効力が問題となることはあっても、それが不当労働行為意思によると認定できないことは、他の被処分者と同様であるから、柳井に対する処分についても不当労働行為に当たらないといわざるを得ない。

7  以上によれば、学園のした天野ほか五名に対する昭和五五年八月九日付け出勤停止処分及び堀内に対する同月一〇日付け出勤停止処分が労働組合法七条一号及び三号の不当労働行為に当たるということはできないのであって、右各処分を不当労働行為に該当するとしたうえ、学園に天野ほか六名に対して右各処分がなかったものとして取り扱い、右各処分により減額された賃金等の支払を命じた初審命令の主文1項について、学園の再審査申立てを棄却した本件命令の部分は違法であり、取消を免れないというべきである。

二  天野の休職処分及び休職期間満了による退職について

1  天野に対する昭和五六年三月三一日付けの休職処分について検討する。

(一) 当時の高松校のクラス数、生徒数等の推移、教員配置の状況に関しては、高松校のクラス数及び生徒数が昭和五二年度以降年々減少し、昭和五六年度は、前年度と比べてクラス数が二〇クラスから一八クラスに、生徒数は八三一名から七一八名にそれぞれ減少したこと、これに伴い、同校の社会科担当の教科総時間数は、同時期において、週あたり一三一時間から一二一時間に減少したこと、昭和五五年度における社会科担当の教員は、天野を含み教諭七名、公立高校を退職して学園に迎えられた高齢の非常勤講師一名の計八名であったが、昭和五六年度には、一年間県外の予備校に出向していた教諭を受け入れることとなっていたこと、他の教科の総時間数については、昭和五六年度は、前年度に比べ国語一一時間、数学一五時間、理科一三時間、英語八時間がそれぞれ減少し、教科別の教員数が国語で一名、数学で三名、理科で二名、英語で一名がそれぞれ減員となったこと、以上の事実は、前記前提となる事実4(三)及び(四)のとおりであり、天野は、昭和五六年三月三一日、以上の高松校における生徒数の減少に対処するためとして、学園から一年間の休職を命じられたものである。

(二) ところで、天野が受けた休職処分については、就業規則第五五条及び第五九条によれば、学園が業務上の都合で相当と認めた場合に休職を命ずることがある旨定められ、休職後の取扱いにつき、休職期間が満了したときは遅滞なく復職を願い出ることとされ、これに対して、学園が復職を許可しない場合には、休職満了のとき退職するものとされている。これによれば、休職期間満了時に復職を許可するか否かは学園の裁量とする旨を定めていると解されるから、一旦学園側の都合によって休職処分とされたときは、復職について何らの保証のない身分関係となるものである。そうすると、学園の都合によって休職処分を発令することが正当化されるためには、少なくともかかる処分を当該対象者に発令することを相当とする事情が存し、かつ、休職処分に当たって休職期間満了時には従前の身分関係を復活させることを保証するか、そうでなければ、復職の保証がない以上実質的に解雇と同視し得るものであるから、整理解雇の法理に照らし、人員を整理する必要性、休職処分を回避するためにとった措置の有無・程度、休職対象者の選定の相当性、労使間の事前の説明や協議の有無・程度の諸点からみて、当該措置が合理的で必要やむを得ないことを要すると解すべきである。

(三) そこで、天野に対する休職処分について、以上の諸点から検討する。

まず、人員整理の必要性の点は、高松校においては、生徒数の減少に伴い昭和五五年度から昭和五六年度にかけてクラス数が二クラス減少し、天野の属していた社会科の教科総時間数も週当たり一〇時間減少しており、同程度に時間数の減少した他の四科目でも一名から三名の教員が減員され、さらに、社会科においては、一年間学外に出向していた教諭一名を新たに受け入れる必要があったなどの事情に鑑みれば、当時社会科の教員に剰員が生じ、これに対処する何らかの措置をとる必要があったことが認められる。

しかしながら、回避措置に関しては、天野の休職処分に際し、学園から復職について何らの保証が与えられなかったことが明らかであり、当時、社会科には教諭の身分の者七名のほか、高齢の非常勤講師一名が在籍していたが、本件全証拠によっても、休職処分を選択する以前に、学園において、丸亀校への配転、出向や希望退職の募集、非常勤講師の雇止め等、極力休職処分を回避するための措置がとられたことはなく、こうした措置の当否が検討された事実も認めることができない。

次に、天野が休職対象者として選定された理由については、学園は、天野が組合委員長として前記前提となる事実4(一)のとおり種々の明白な違法組合活動を指揮し、自ら参加し、懲戒解雇に値する事由が存するほか、同人の優秀クラスの担任当時、生徒の進学成績が劣悪であり、普通クラスの担任時には、生徒を放任しクラス担任能力が欠如するなど他の社会科の教員に比し著しく勤務成績が悪かったためであると主張する。しかしながら、学園が主張する組合活動については、確かに正当な組合活動の範囲を逸脱していると目されるものも含まれているけれども、これらを理由にして既に学園によって懲戒処分がされており、これをもってさらに懲戒解雇に相当する事由と解することは、同一の理由により再度の不利益を課することになるので許されないものである。そして、休職処分の対象者の選定にあたっても、同処分がやがて自動的に身分を失わせることになる不利益な処分であることからすると、既に処分済みの組合活動を休職処分の人選の理由に直接的に結びつけることは相当ではないというべきである。また、天野の優秀クラス担任当時の勤務状況については、高松校がいわゆる進学校であることを前提としても、進学結果が本人の希望も含めた生徒の個人的な要因に負うところが大きいことは自明の事柄であって、大学への進学結果が一つの指標にはなり得ても、これだけで教師の勤務成績をすべて評価することは不相当であるし、このほかに同人の優秀クラス担任当時の勤務成績が不良であったと認めるに足りる証拠は存しない。その後の天野のクラス管理に関しては、天野が生徒を放任していた事実を認めるに足りる的確な証拠はなく、かえって、前記前提となる事実4(一)によれば、天野は、昭和四三年度から昭和五五年三月までは、社会科の教科主任を務めていたことが認められ、学園は、天野の教員としての能力にそれなりの評価を置いていたことも窺われるのであるから、天野の勤務成績に関する学園の主張は、俄かに採用し難い。証拠(<証拠・人証略>)中右認定に反する部分は信用できない。

さらに、手続面においても、天野に対する休職処分は、組合及び天野本人に対して、何らの予告や説明なしに行われたことは明らかである。

(四) 以上によれば、学園が組合及び天野に休職を命じたことについては、人員を整理する必要性は一応存するといえるが、休職処分の回避措置、休職対象者の選定、労使間の事前の説明等の諸点において、首肯できる理由を見出すことはできず、著しく合理性を欠いた措置であったというべきである。

そして、かねてから学園が組合員の活動を嫌悪していたことは先に認定したとおりであり、殊に学園が天野の組合活動を休職処分の理由の一つとして主張していることも併せ考慮すれば、学園は、組合の活動を嫌悪し、組合の執行委員長である天野を学園から排除しようとして、休職処分を行ったものと認められる。

2  天野に対する休職期間満了による退職については、先行する休職処分が前述のとおり著しく合理性を欠くにもかかわらず復職させなかったものであり、同じく不当労働行為意思に基づいてなされたものということができる。

3  以上から、天野に対する休職処分及び同人の休職期間満了による退職は、学園が天野の組合活動を理由としてした不利益取扱いであり、かつ、組合の弱体化を企図した支配介入であるということができるから、労働組合法七条一号及び三号に該当する不当労働行為である。したがって、原告のこの点に関する請求は理由がない。

三  岡及び中村に対する出勤停止処分、降職処分及び雇止めについて

1  まず、倉田校長が、昭和五六年四月三日開催の職員会議の席上、岡、中村らに命じた本件早朝生徒指導命令の効力について検討する。

(一) 前記前提となる事実6(二)によれば、当時高松校においては生徒の服装の乱れや遅刻が目立ち始めたため、これに対して服装指導をはじめとする生徒指導を強化する必要性が存していたということができる。

また、前記前提となる事実6(四)のとおり、例年、校長が高松校の校務分掌を決定し、年度第一回目の職員会議で発表されていたことからすると、昭和五六年度において服装指導を行うこと、指導の方法や方式の決定、さらに指導担当者の選定は、校長の合理的な裁量に委ねられていたというべきであり、服装指導の性質上、同一の担当者によりある程度長期にわたって継続的に指導を行うことには、交代制等の他の方式にない利点もあると考えられるのであるから、本件早朝生徒指導命令のような指導方式を採用したことが、校長に許される裁量の範囲を逸脱するものとはいえない。

そして、本件早朝生徒指導命令の対象となった者の始業時刻に関しては、就業規則第一五条には、職員の始業時刻が午前八時三〇分と定められる一方、同条ただし書に「当校の都合により全職員又は一部職員の勤務につき基準勤務時間の範囲内で、始業終業の時刻及び休憩時間を変更することがある。」との規定が置かれている。もっとも、右規定によって、職員が始業時刻を一五分繰り上げて一年間にわたって勤務するよう命じられることは、家庭の事情や交通事情等との関係で個人の日常生活上負担が生じ、業務上も毎朝行われる職員朝礼に出席できなくなるなどの負担が生じるものであるが、前記のとおり高松校の生徒の服装に関して適切に指導を行う必要性があり、生徒指導に伴う右の負担も社会通念上著しく過大なものとは解されず、学校における業務には、このような対応を要する場面が存することも否定できないから、本件早朝生徒指導命令による勤務時間の繰上げは、就業規則の予定するところというべきである。したがって、本件早朝生徒指導命令が、勤務時間についての就業規則に違反するということはできない。

(二) ところで、前記前提となる事実6の事実経過によれば、学園は、昭和五六年三月二七日付けで、昭和五五年中に行われた組合の紙筒闘争等の組合活動に対する懲戒として、それぞれ組合委員長、書記長、書記次長であった天野、岡及び中村に対して出勤停止処分を行ったこと、天野に対しては前記のとおり同月三一日付けで一年間の休職処分としたこと、本件早朝生徒指導命令は、その四日後の職員会議の席上発表され、その対象者は岡、中村らいずれも組合員であったこと、前年度生徒指導部が自主的に服装指導等を行っていたことについてそれまで学園から特段の指示や注文がなかったこと、学園は、昭和五六年度に従前の校務分掌を変更し、生徒指導を校内係と校外係に分けたうえ、校内係とされた者を本件早朝生徒指導命令の対象者にしていること、校務分掌の決定にあたり、対象者への事前の打診がなく、職員会議の席上突然命じていること、事後においてもこのような措置を行う必要性や人選について本人や組合に対して説明をせず、組合の団体交渉の申入れにも応じなかったことなど、この間の学園の対応をみると、本件早朝生徒指導命令が岡及び中村の組合活動を嫌悪してなされたものとの疑いを生むような点も見受けられる。しかしながら、前記のとおり、こうした生徒指導を行うことについての必要性が認められ、これに対処するための校務分掌の決定が校長の裁量に属し、本件早朝生徒指導命令もその一環であることに鑑みると、これらの事情が存するからといって、本件早朝生徒指導命令自体が不当労働行為意思に基づくものと推認するのに十分であるとはいい難い。

(三) 右に説示したところによれば、本件早朝生徒指導命令は有効であり、岡及び中村には右命令を履行すべき義務があったというべきである。

2  以上を前提に、岡及び中村に対する昭和五六年八月四日付け出勤停止処分について検討する。

(一) 前記前提となる事実6(五)及び証拠(<証拠・人証略>)によれば、生徒指導部は、昭和五六年四月以降、登校時に遅刻指導、服装指導等を輪番制で行うことを内容とした生徒指導計画を随時策定し、右計画に従い、昭和五七年度末まで断続的に登校時の生徒指導を実施し、岡及び中村は、右計画による割当てに従って生徒指導に従事していたが、校長の命じた本件早朝生徒指導命令そのものには従っていなかったことが認められ、証拠(<証拠略>)中右認定に反する部分は信用することができない。

右の生徒指導部の輪番制の取組みは、個人の負担を軽減し、校長の命じた本件早朝生徒指導命令の趣旨を実質的に実現しようし(ママ)たものということができるが、前記のとおり、校務分掌の決定は校長の裁量に属する事柄であって、生徒指導部にどのような業務を分担させるかの決定権限も本来校長に帰属するのであり、校長のした本件早朝生徒指導命令を生徒指導部が変更することができないのはもとより、生徒指導部が作成した輪番制による生徒指導計画は、二度にわたり倉田校長から却下されたというのであるから、生徒指導部の輪番制による生徒指導によって、岡及び中村に対する本件早朝生徒指導命令が履行されているということはできない。

(二) なお、本件早朝生徒指導命令の趣旨は、就業規則の前記規定を合理的に解釈すれば、終業時刻も含めた勤務時間の繰上げであることが理解されるが、証拠(<証拠略>)によれば、昭和五六年四月三日の職員会議の席上においては、倉田校長は、単に始業時刻を一五分ずらす旨を述べたにとどまり、右の点の説明が不十分であったきらいがある。しかし、証拠(<証拠略>)によれば、同年五月一九日には、中村が倉田校長から終業時刻も含めた勤務時間全体の繰上げである旨を告げられたことが認められ、そのころ岡及び中村において終業時刻の繰上げの趣旨も明確に理解されていたものとみられるから、少なくとも、この時期以降の命令の不履行については、懲戒処分の事由として考慮することに何らの支障はないものと考えられる。

(三) 以上によれば、岡及び中村に対する昭和五六年八月四日付け出勤停止処分については、本件早朝生徒指導命令が有効なものであるにもかかわらず、同人らが右命令に違背し、さらに同年五月に校長から命令に従うよう促されたほか、同年六月には野口主事を通じて注意を受け、同年七月八日には警告書が発されているのにこれを聞き入れなかったことを考慮すれば、右命令違反に対し出勤停止処分を課することは、相当性があるというべきである。なお、この間学園は組合の本件早朝生徒指導命令に関する団体交渉の申入れを拒絶しており、この点については後記のとおり学園に対する非難は免れないところであるが、この段階で選択された懲戒処分の程度をも考慮すると、いまだ懲戒権の濫用に当たるとはいえず、不当労働行為に該当するとはいえない。

3  次に、岡及び中村に対する昭和五七年三月三一日付け降職処分について検討する。

(一) 岡及び中村は、前記前提となる事実6(八)によれば、昭和五六年八月四日付け出勤停止処分を受けた後も、二学期及び三学期に野口主事を通じて学園当局の注意を受けていたにもかかわらず、年度を通じて校長の命じた本件早朝生徒指導命令には従わなかったのであるから、同命令に違反していることは明らかである。

(二) ところで、教諭から非常勤講師への降職処分は、前記前提となる事実8によれば、雇用期間の点で終身雇用を予定するものからかかる保障のないものへ、また給与の点では月給制から日給又は時間給へ変更されるのであるから、右の身分の変更は、社会通念上同一の契約の内容の変更とみることはできず、従来の労働契約を終了させる性格のものと解される。そうすると、このような処分が行われるにあたっては、その法的効力の問題は別にして、懲戒事由と処分の均衡の問題としても当然に懲戒解雇が相当とされる事由が存することが必要とされるというべきである。

(三) そこで、この段階における岡及び中村の本件早朝生徒指導命令違反についてみると、前回の出勤停止処分以後も同命令の不履行があり、結果的に一年間にわたって学園における右生徒指導ができなかったのであるから、岡及び中村の右命令違反による責任は決して小さくないというべきである。

しかしながら、本件早朝生徒指導命令は、実質的には、時間を繰り上げて出勤することが余儀なくされる点で他の教員と比べて特に負担が加重されるものであり、勤務時間の変更を伴う命令であって、組合員の労働条件にかかわることが明らかであるから、右命令に関して就業規則に根拠があることを理由に団体交渉を拒絶することは許されないものであるにもかかわらず、学園は、年度を通じて、本件早朝生徒指導命令の対象者の人選やその方式を採用した必要性につき何らの説明をせず、組合の団体交渉の申入れにも応じないなどの態度をとっていたこと、岡及び中村が右命令に従わない結果から生ずる生徒指導への影響については、一方において学園や校長の意思には反するものの、事実上生徒指導部の策定した輪番制による生徒指導が行われており、他方、校長が一年間にわたり右命令違反にかかわる代替措置を何ら講じていないことを考慮すれば、それほど重大なものであったとまでは評価できないこと、前判示のとおり、本件早朝生徒指導命令が労使関係が険悪化しているところで、事前の打診もなく突然組合幹部が指名されるなど、学園の姿勢に組合が疑いをもち、反発することも無理からぬ点があることなどの事情に照らすと、岡及び中村の一年間にわたる本件早朝生徒指導命令違反が、直ちに懲戒解雇に相当すると評価することはできないのであって、岡及び中村を降職処分としたことは、重きに失するというべきである。

(四) そして、前記前提となる事実6(五)のとおり、他方で生徒指導部が自主的に立案した輪番制の生徒指導計画にも相応の合理性があったと考えられるのにこれに顧慮せず、岡及び中村に本件早朝生徒指導命令を遵守させることのみに固執し続けた学園の態度には不自然の感を免れないこと、前記のとおり学園が組合の団体交渉要求に対して正当な理由なく拒否していること、岡及び中村の降職処分と同じ日に、前判示の天野の復職の不許可のほか、非常勤講師の組合員を雇止めとし、他の二名の組合員を非常勤講師へ降職とし、同一日に六名の組合員を身分関係に変更の生じる処分に付していることが認められ、先に認定したとおり、学園がかねてから組合及び組合員の活動を嫌悪していたことも併せ考慮すると、学園は、不当労働行為意思に基づき岡及び中村の降職処分に及んだものと推認される。

(五) したがって、岡及び中村に対する降職処分は、組合及び同人らの組合活動を嫌悪してなされた不利益取扱いであるとともに、組合の運営に対する支配介入と解されるから、労働組合法七条一号及び三号に該当する不当労働行為に当たるというべきである。

4  岡及び中村に対する非常勤講師の雇止めについて検討する。

右雇止めは、前記前提となる事実7(二)のとおり、昭和六〇年三月二九日付けで、学園が同人らの非常勤講師としての契約を更新しないこととして契約期間の満了の通知を行ったことによるものであるが、不当労働行為である前記降職処分を前提とするものであるから、同様に労働組合法七条一号及び三号に該当する不当労働行為に当たるといわざるを得ない。

5  学園は、岡について、同人が学園を任意退職し、かつ、組合からも離脱したことから、被救済利益が失われたと主張する。しかし、岡個人に対する損害の回復を命じた初審命令は、初審申立人である組合の活動一般に対する侵害を回復する側面も併有していると解される。のみならず、証拠(<証拠略>)によれば、岡自身も復職の意向をもっていることが認められ、同人が学園の不当労働行為による一切の個人的被害の回復を放棄したと認めるに足りる証拠はないから、学園の右主張は採用することができない。

6  以上によれば、岡及び中村に対する昭和五六年八月四日付け出勤停止処分は、不当労働行為に当たるとはいえないが、学園のした同人らに対する昭和五七年三月三一日付け降職処分及び昭和六〇年三月二九日付け雇止め通知は、組合及び同人らの組合活動を嫌悪してなされた不利益取扱いであるとともに組合の運営に対する支配介入と解されるから、労働組合法七条一号及び三号に該当する不当労働行為というべきであって、本件命令中、初審命令の主文3項について、岡及び中村に対する昭和五六年八月四日付け出勤停止処分に関して被告が初審命令を維持した部分は取消を免れないが、同人らに対する昭和五七年三月三一日付け降職処分及び昭和六〇年三月二九日付け雇止め通知に関してこれを不当労働行為に該当するとし、初審命令を維持した部分については、学園主張の違法は認めることができず、学園のこの点に関する請求は理由がない。

四  結論

よって、学園の本件請求のうち、本件命令、初審命令の主文1項の部分及び同3項のうち、岡及び中村に対する昭和五六年八月四日付け出勤停止処分にかかる部分について、再審査申立てを棄却した部分の取消を求める部分は理由があるから認容し、その余は理由がないから棄却して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 萩尾保繁 裁判官 片田信宏 裁判官 梅本圭一郎)

別表1 年度別学年別 クラス数・生徒数の推移 昭和51年4月~同57年4月

<省略>

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